治水伝説の回帰する中国社会

 洪水神話がはっきりと伝承されてきている中国は広大な河川の統治が歴史時代あるいはそれ以前からも国政のかなめとなる重要なファクターであった。

 神話から見ておく。史記の「五帝本紀」から

「舜はまた初めて天下を十二州に分かち、河川の流れを治めて水害を防いだ」とあり、続けて「四嶽が鯤を挙げて洪水を治めさせようと勧めた。尭は、だめだと考えたが、四嶽がどうしてもやらせてはしいと懇請した。やらせてみると、何の効果もあがらず、百官も人民もおかげを蒙らなかった」


鯤(こん)は罰を受け、その子の禹(う)が治水事業を引き継ぎ、成功する。堯舜の時代といわれほど理想的な統治を実現した聖人君主がどうして鯤のような大きな見誤りを行ったのか。
 『楚辞』において屈原はこう天に問いかけた。

鯤は洪水を治める才能がないのに
衆人はなぜ彼を推挙したのか
人々がそれを保証したからとて
なぜ堯は試しもせずに用いたのか

      目加田誠 訳


 さらに、「三皇本紀」にある女媧と伏儀という男女二体の龍神神話も洪水に関わる。
 中国古代に詳しい宮本一夫によると

中国西南地区のミャオ族やヤオ族の伝説では、伏義と女蝸は実の兄妹であったが、のちに夫婦となったというものである。雷神の怒りのための大洪水ですべての人々は息絶え、大きな瓢箪のなかに隠れていた兄妹だけが生き延び、結婚して夫婦となり、人類再生の祖先となったという洪水伝説である。


 これは有史以前の伝説である。しかし、ドイツのウィットフォーゲルは治水を軸とした「水利社会」として伝統的な官僚制が発生したという学説を戦前に提唱している(今日でもその見直しが盛んである)
 これは日本や朝鮮になど見られぬ統治制度である。文筆に長けた人材をもとに精密な国家機関を二千年前に構築していたのは巨大な土木治水がどうしても必要であったからだということになる。その退行形が「風水」であるといえなくもないだろう。

 これは言い換えるならば、現在の中国政府もその歴史的/風土的な束縛は逃れられず、治水政策は国家の重大事業でありかつ死生を制する問題でもある。しかし、工業化の著しい進展と人口爆発によって危機的状況にあるのに加えて、温暖化効果により中国北部の乾燥化を留めることが困難になつている。
 中国最大の大河である長江(揚子江)は過去2000年に214回も大洪水を起こしたとされる。これを三峡ダムをはじめとする巨大土木事業で治水を行うという幾つもの試みは累卵の危うきに瀕している。

 単純に過去の文化歴史的伝統を旧弊というだけで切り捨ててきたのが、共産主義国家である。その温故知新でもなんでもない無闇な政治的決断は「近代」という魔法の言葉で潤色させれる傾向にある。

 そもそも中国共産党は「近代科学的」と称する独断政策により多くの犠牲を払ってきた。例えば、一九五八年に始まり六二年まで続けられた共産的ユートピア化の試み「大躍進」で五千万人に餓死者を出している。
 負の遺産というべき毛沢東以来の一党独裁はおそらくは悪夢の再来を防ぐには不向きな政治体制なのだ。
今の指導者が鯤となるか禹となるか、それは数十年内に分かると河川学者のエレン・ウォールは指摘している。
 過去を切り捨てて短期的利益を追求するなと古代の賢人たちは異口同音に申し立ててきたのだが...、それが中国の古き文化的哲学的な気分であったのだが。



【参考書】

神話から歴史へ(神話時代 夏王朝)

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屈原 (1967年) (岩波新書)

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中国の神話 (中公文庫BIBLIO)

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世界の大河で何が起きているのか 河川の開発と分断がもたらす環境への影響

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