うずみ火や我がかくれ家も雪の中 蕪村

 身も心も震える厳しい寒さの冬のよる、
  うずみ火や我がかくれ家も雪の中
なる蕪村の句は深々と響きわたる。

 似た風合いの句として「桃源の路次の細さよ冬ごもり」を付け合わせると、狭い我が家でもって、暖房を補う厚着にくるまれ寒い手元をこすりながら、それでもヌクヌクとする。そして、冴え冴えとした星空の下、家のわき道を通りゆく足音に耳をすませながら、わが身の安逸を味わう。
 外気の冷却に自らのヌクさを重ね合わせるだけではない。母胎のなかの慰安を思わせるように、幾重にも守りを重ねた安心の境地があるようだ。その重ねには狭い路地や狭い我が家や、背中を丸めた合わせ着も含まれるのだ。

 現代社会の話題に蕪村の美学を持ち込んでみよう。「引きこもり」に陥った人々にとって、蕪村の「冬ごもり」の句は共感を引き起こせるのだろうか?
 世間に背を向け己の世界、多くはゲームやアニメなどの世界にリアルを感じ、外界は自分に敵対していると感じている一部の現代人は蕪村の俳句をどう思うのだろうか?

 居眠りて我にかくれん冬ごもり

 冬ごもり仏にうときこゝろ

 勝手まで誰が妻子ぞ冬ごもり

 外の厳しき空間が蕪村の「冬ごもり」では幾重にも布団に包まれた心象光景になっているようだ。
 蕪村が隠棲した寛政年間の京都は太平の世を謳歌し、蕪村を師と仰ぐ裕福な商人たちがサロンを営んでいた。蕪村も好んでそうした市井の人々と交わったという。そうした社交あっての冬ごもりなのだ。
 現代の引きこもりビトはどうなのだろう。家や部屋や自分のファンタジーは彼を守ってくれているのだろうか?
 子規は蕪村の句を「隣無き一軒家」の佗びと呼んだらしいが、引きこもりビトにとっては「隣無き一室」の孤独という状況にありはしないか?
 蕪村とは違い、彼らは人の心の寒さに震えているのではないか?
蕪村の俳句が彼らの心に届くになれば、彼らの生も温かみを帯びるのではないか?
勝手な憶測でしかないが。


与謝蕪村 (別冊太陽 日本のこころ)

与謝蕪村 (別冊太陽 日本のこころ)