和泉式部の「もの思い」の語感

 昨夜は和泉式部の足袋の説話に足元を救われてしまった。本当は彼女の歌を取り上げてみたかった。

 ものおもへぱ沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る

 捨てられた男のことを思い悩むあまりに心は乱れて我が身を離れ去りホタルとなりはてたような虚ろさを覚える、というのは平明な解釈なのだろうが、十分にこの歌の深さや暗さを描いてはいない。
 「もの思へば」のものは、語感からすれば「ものすごい」や「もののけ」の「もの」であり、名状すべからざるものが憑いた状態という響きがある。もはや自分であって自分でないのだ。その暗さの底から湧き上がる仄かな灯火がホタルである。
「あくがれ」も尋常のことばではない。この歌には「もの」と「あくがれ」が異常なまでの緊迫関係にある。
 非力な自分の分析は諦めて、折口信夫の古代感性を狩りだすとしよう。

 たまは内在のもの、たましひはあくがれ出るもの、其外界を見聞することから智慧・才能の根元となるもの、と考へて居たらうと言ふ事だけは、仮説が持ち出せる。さうして其、不随意或は長い逸出などの、本人の為の凶事を意味する游離の場合に限つて、光りを放つものと見た様だ。

 つまり、ホタルとは「本人の為の凶事を意味する游離」の放つヒカリの意味なのだ。
貴船神社に詣でた和泉式部は沢に身を沈めることを無意識に物思い悩んだのだろう。
 我が国の女性に多く見られる沢に身を投げる行為ギリギリまでに和泉式部は追い詰められたのだ。

 実に畏れおおいことに、ここで貴船の明神が降臨する。和泉式部の心のなかでの出来事かもしれない。だが、まごうことなき神的な存在との相聞が生じることで和泉式部は救われる。巫女的だ。

 奥山にたぎりて落つる滝つ瀬いずみの玉散るばかりものな思ひそ

 聖なるものとのコンタクトが和泉式部の並外れた情緒の奔流によって招来しきたということもできよう。

 貴船神社の境内には「蛍岩」なる巨石があることを申し添えておく。

和泉式部幻想

和泉式部幻想