大河小説が流行らない世の中に

 『君たちはどう生きるか』の漫画版が売れている。喜ばしいのか嘆息すべきか、微妙なところだ。
ジブリの影響恐るべしというべきか、それともそういうたぐいの法王的権威しか、もはや人々のこゝろを動かすものがないのか。
 今どき、簡単に理解できるものしか、流行らないのは事実だろう。
 その対偶命題として長い小説は忘却の彼方にあるわけだ。マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人びと』や芹沢光治良の『人間の運命』はおろか、トルストイの『戦争と平和』やユゴーの『レ・ミゼラブル』すら通読した若ものは少数派になってるのは間違いあるまい。
 トルストイユゴーも映画かミュージカルで十分知ったという心地になるのが現代なのだろう。
 まして、バルザックやゾラの、それぞれ『人間喜劇』シリーズやルーゴン・マッカール叢書、あるいは中里介山の『大菩薩峠』や曹雪芹の『紅楼夢』を読もうという志しのある人などは絶滅危惧種に指定されるのであろう。
 かくいう自分もそうした大長編ものの通読を生き甲斐としてはいたが、もはや読み通す気力と時間がなくなりつつある。
 日本人にはことさら短い話を好む性向があった。星新一ショートショートを1001話生み出したが、これは中東の『千夜一夜物語』を意識した諧謔であろう。その極北はすでに稲垣足穂が『一千一秒物語』で先鞭をつけてはいる。

 自分のことは棚に上げておくとして、短い物語りか映像にしか関心を持たぬ人たちというのは、どのような精神構造にあるのかというと、中世の人間像に近いのではと想像している。
「語り」の世界に意味を見出す精神だ。
 説経節などさすらいの芸能民の口承文芸異世界の喜怒哀楽を伝える。そんなレトロなメディアが最近のデジタル・メディアに類似であるという主張は奇妙かもしれない。
 しかし、口承文芸の直接性、多くの文章ではなく短い語りかけ、一人だけの世界ではなく、SNSのようなネットワーク・コミュニティーで感動を共有する井戸端性など多くの点が、中世的なのだ。

 自分であること、孤独であること、一人で考えることは、それほど尊重されなくなった。現代社会で、物語りは短くシンプルであるほどよい。複雑なストーリー、深い思考や複雑な感慨などはSNSで共有しようもない。怒りと響き、喜びと笑い、それにへつらい。それだけあれば十分なのだ。


一千一秒物語 (新潮文庫)

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