銅鐸の弥生時代の呼び名

 後世の考古学者が「銅鐸」と呼んだ発掘物を弥生時代の人々がなんと呼んだかが奇跡的に伝わっている。
 「さなき」と鐸を称したことが斎部広成の『古語拾遺』に記されている。これはさらに縮小して「鈴」にまで小さくなった。神社の鈴の元は「銅鐸」なのだ。

石窟(あめのいはや)の段で広成はこう書いている。

「石凝姥神(いしこりどめのかみ)をして天香山の銅(あかがね)を取りて、日の像(かた)の鏡を鋳(い)しむ」「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)をして雑(くさぐさ)の刀(たち)・斧(をの)及(また)鉄(くろがね)の鐸(さなき)(古語に佐那伎といふ)を作らしむ」

 石凝姥命が鉱石を掘り出し、天目一箇神がそれを錬成して鐸(さなき)に仕立てている。もし、この神話の文脈をそのまま信じると、銅鐸とは天石窟(あめのいはや)から天照皇大神アマテラスオオミカミ)を引き出すための、打楽器であったことになる。

 西日本が銅鐸圏だという説もかつてはあったが、それが太陽の再臨を保証するための儀式の儀軌だったのかもしれない。
 『古語拾遺』は偽書ではない。記紀に続く貴重な古代の記録と認定されていることは追記しておこう。