老子と荘子は道家の本家本元である。ところが後代の道教で老子は「太上老君」と並みいる神々のうちでも上位の位を与えられているのに対して、荘子は神名一覧のどこにもいない。
これはどうしたことか?
やはり、老子はその行方知れず伝説からして神話化されるような素質を持っていた。
金谷治によると函谷関でこの書を残し、老子は西方の彼方に去っていく。
周の衰運を予見して都を去り、関所の役人の喜(関令尹喜)という人物の頼みで、「道」と「徳」との意味をのべた上下二篇五千余字の書物を著わしたが、そのあと消息を絶ってしまった
この「史実」がもとで老子が釈迦を教えたという、偽史偽経まで飛び出す。『老子化胡經』だ。桑原隲藏によるとこういう顛末になる。
老子が西域印度へ出掛けて、幾多の胡國を教化したことを書いたもので、西晉の惠帝の頃に、道士の王浮(或は王符に作る)といふ者の僞作に係る。
それやこれや、尾ひれはヒレで老子先生は天上の神にひとしい位階を占めることになるのだ。
莊子はどうであろうか。
道教では莊子は出てこない。
なぜか?
一つの答えは『荘子』の「秋水篇」にある。その印象的な挿話によって、彼の神格化は打ち砕かれたという説を自分は主張したい。
その挿話は知る人ぞ知るのだが、簡単に紹介しておく。
それは楚王の二人の使者がやってきて高位の役職に招かんとした回答である。
荘子、竿を持じして顧みず。曰く、吾聞く、楚に神亀有り、死して已に三千歳なり。
王、巾笥して之を廟堂の上に蔵すと。此の亀なる者は、寧ろ其れ死して骨を留めて貴ばるるを為さんか、寧ろ其れ生きて尾を塗中に曳かんか、と
余談だが、この後ろ姿をカッコいいと論じる人は多い。
荘子は生きた亀として「尾を泥中に曳く」方を選んだのである。後世に間違っても天上界に祭られるような道を途絶する意思、あるいは荘子の予見的な目論見がこの逸話にはあるようなのだ。
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