俗物たちのパラダイス 金融とマネー幻想

 金融サービスは現代社会にとって本質的な存在だ。電子マネーがこれほど気楽に使えるのも、ローンを組んで好きなモノを買えるのも、海外旅行が自由気ままに楽しめるのも金融テクノが高度に発達したおかげである。
 織田信長楽市楽座、あるいは近年の金融ビッグバンのような市場の自由化の流れは現在も引き続き継続している。マネーの流れに対するフリクション、それは関税であったり、規制クリアの手続きだったりするが、そうした障壁をなくすというのが、市場の自由化である。その含意するのは、契約や売買といった経済活動の高速化と効率化だろう。
 自由化によりマネーの流動性がますます高まるのだ。かつてニクソン・ショックにより貴金属との兌換性を切り離された。マネーは金=価値のある物質と離れて、自由に増殖することができるようなった。
 それはつまり、純粋に「信用」という集団心理的な価値判断にマネーの等価性が移行したということだろう。集団心理=あの国債には信用が有るという無数の思い込みに根拠が置かれるようなったのだ。
 最近頻発する金融バブルとその崩壊は、集団的幻想の暴走とその自滅であると言い換えることができる。しかも、そのゲーム性の愚かしさ!
自由化の恩恵でいともたやすくバブルを起こし、消滅させている。その余波で苦しむ多くの人びとがいることも忘れて、ゲームの勝者がその強運を誇るのだ。

 実体から解き放たれたマネーはブロッケン現象のように一人歩きする時代だ。
 巨魁な空虚性に多くの人びとが同期して行動する。そのシステムが現代金融なのだろう。
 金貨であったときですら、真の宗教者たちはその崇拝者たちに眉をひそめた。金貨ですら無い、集団幻想とそう離れた場所にはないのが今日のマネーである。思えばビットコインはその幻覚性を露わにした事件だったといえるのだ。
 ああ、早く唯識的なマネー論を説く雄弁なる宗教者が生まれでてほしいものだ。

 気ぜわしい結論。
マーヤのヴェールに被われたマネーに幻滅する能力は金融に幻惑された人びとには皆無なのだろう。