極東軍事裁判の前後の対インド関係

 極東軍事裁判、つまり、東京裁判のさなかに大川周明は椅子を叩いて「インド人よ来たれ」と英語で叫んだ。
 その期待に応えたかどうか、インド人判事のラダ・ビノード・パルは日本人被告らに無罪宣言をしている。事後法で裁くな、戦争犯罪はあったが東條英機A級戦犯容疑者とは直接関与がない等々と分厚い『パル判決書』に勤勉なインド人はその法理と判断を記した。

 共同謀議という争点についてパルはいろいろとその難点を指摘しているが、とくにハル・ノートについては日本に同情的なスタンス(明確な正当性を日本側に付与してはいない)である。

これは晴天の霹靂であった...いいかなる国といえども、なお方途あるにかかわらず好んで第二流国に転落するものはない。

と嶋田 繁太郎(東條内閣の海軍大臣)はハルノートを非難する。そして、パル判事はこうコメントするのだ。

当時発生しつつあったでき事や事態について、われわれが現在知っていることから判断するならば、たしかにこれこそは、まさにそのとおりであったろうと思われる記述である。右に述べられた説明は日本のとった行動を正当化しているかもしれないし、そうではないかもしれない。まさにに起こったこれらのでき事を十分に説明しているという点である。

 つまりは、日本は追い詰められた。ほとんど外交的に手詰まりだったのはパルも認めているのだ。だからといってアメリカへの宣戦布告が正しいとは言っていないことには留意されたい。


 その数年前に決行されたインパール作戦は植民地インドの解放を狙った壮挙にして愚挙だった。補給線を考えないお粗末な戦略は惨憺たる結果を導いた。その敗因は牟田口をはじめとする日本陸軍の首脳にあるにせよ、その敗戦後のインドの騒乱は独立を早めたといえる。
ボースに率いられたインド国民軍の敗残兵はイギリスの軍事法廷によりさばかれることになった。しかし、そこで裁かれたのは大英帝国の方であった。
インド人たちはボースの衣鉢を継ぐ敗残兵たちを英雄視し、全インドで抗議運動を始めたのだ。警察や治安部隊との衝突が至る所で起きた。この騒ぎを独立運動に利用したのがガンジーネルーの国民議会派だ。
 かくて弱体化していたイギリス政府はインド独立の容認に流されていゆく。
 インド独立の運動はガンディー、ネルーといった英傑によって着々と進められていた。しかし、チャンドラ・ボースと自由インド軍という存在がなかりせば、インド独立はなお数年か十数年は遅れたことだろう。