『コーラン』も実のところ、ユダヤ教やキリスト教に影響を受けている。それどころか、ユダヤ教から始まる神からの伝言を伝える役を引き継ぎ、ムハメッドは唯一神からの最後の預言者である。しかし、『コーラン』では微妙な違いや他の伝承が紛れ込んでいる。
「ことばの始まり」については旧約聖書の創世記ではこうである。
地から野の獣と空の鳥とをつくり、人間のもとに連れてゆかれた。それは、人間がそのものをどのように呼ぶかを見たいと思われたからだ。その生き物を人間がどう呼ぶか、その呼び名がそれらの名となるはずであった
かなり重要な事柄が含まれている。人間が生き物の命名者であり、それは神の権威により真実性や唯一性を保証されている。
バルバロの注によれば「セム人がものに名をつけることは、そのモノの所有権とか支配権をもつことと同じであった」という。
さてお前の主が天使らに向って「わしは今から地上に代理者を設置しようと思う」と告げ給うた時、一同(それに抗議して)云った、「地上に悪をはたらき、流血の災を芯き起すような者を汝はわざわざ作り給うのか。我らがこうして汝の讃美を声高らかに唱え、汝を聖なるかな聖なるかなと讃えまつっておりますのに」と。(アッラーはそれに)答えて言い給うに、
「まことに、わしは汝らの知らぬことをも知っておるのじゃ」と。
かくて(アッラーは、ひそかに)アダムにすべてのものの名前を教えた後に、
それらのものを天使らに示し、「さあ汝らこれらのものの名前をわしに言って見よ、もし、汝らの言葉が嘘でないならば」と言い給うた。
天使たちは「ああ勿体ない、畏れおおい。我らはもともと汝が教えて下さったものだけしか存じませぬ。まことに汝こそは至高の智者、至高の賢者にまします」と言うばかり。
その様子を見給うてアッラーは)「これ、アダム、あの者ども(天使たち)にものの名前を教えてやるがよい」と言い給う。そこで彼がみなにものの名前を教えてやると、(アッラーは)言い給うた、「どうじゃ、わしが言った通りではないか」
井筒俊彦訳
井筒が指摘するようにここには言語哲学の萌芽がある。ものの存在は名前がつけられることである。
天使たちにさえ人間の名前を知る力はない。そして、ものの名前は神の知る名前と同じものである。名前はものよりも超越的な存在なのだ。人間は命名することでものに新たな存在を付与するパワーすら与えられている。
天使はその点で人間に劣る。いやもう一つ、天使は神を讃えることしかできない。人間は神に背くことも可能である。唯一神に背いた天使はルシフェルだが、彼によりアダムはエデンの園から追放されることになる。
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