「小豆あらい」はなぜ妖怪をしているのか?

 小豆あらいなる妖怪ほど酔狂な化け物は少ない。
 ひとを驚かすのが何よりも楽しみな妖怪たちの中でも、食べ物を洗うだけのひたむきなヤツだ。
 人の通りかかるのを待って、小豆を洗う音をたてる、その一点のみにおのれの全存在を投入しているのだ。
 もちろん、サウンドは無償の行為である。驚いた人の後を追いかけるようなストーカー的なしつこさもない。

 それにしても「妖怪辞典」を開くと、この小豆あらいは全国に出没しているのだ。 この地理的な広がりと民衆の迷信の根強さは、いったいどういうことなのであろうか?

アズイ洗い 岡山県久米郡
小豆あらいギツネ 岡山県赤磐群
アズキアライド 東京都檜原村
小豆こし 鳥取県因幡
小豆ゴシャゴシャ 長野県長野市
小豆さらさら 岡山県阿哲郡
小豆スリ 岡山県都窪郡
小豆ソギ 山梨家北巨摩郡
小豆そぎ婆 山梨家北巨摩郡
小豆とぎ 広島県世羅郡 山口県美都郡
小豆とぎ婆さん 群馬県 栃木県
小豆とげ 岩手県岩手郡
小豆投げ 埼玉県秩父郡
小豆はかり 東京都
小豆婆 埼玉県大宮市 入間市 川越市
小豆やら 香川県坂出市

 小豆洗いに注ぎ込まれたボキャブラリは日本人の思い入れの現れであろう。
 種類と分布の規模は、まじめにその理由を考究すべきなのではないか?

 柳田国男は小豆に関わる儀礼への記憶がこの化け物への畏れに残存しているとした。
なかでも小正月の年男が身を清浄にするという指摘があるのを引用しておく。

 だから春を迎えるという家々の準備には、一通りならぬ謹慎があった。衣服も食物も共に皆晴れのものを用い、言語挙動までも清浄を専らとしたのは、決して縁喜という類の幼稚なる論理からでない。祭主は当然に家長の役であったが、家にも一国と同じく祭政分離の必要があって、優良なる若者の中から年男が選定せられることになった。年男の権限は土地によって広狭がある。それを比較して見ると新年の事務の何であったかがわかる。東京などでは豆をまくのが年男のように思っており、堅い家風の家でも、新しい手桶に若水を汲むまでを年男の役にしているだけだが、信州越後その他の村では、中々容易でない骨折である。注連の内を通じて、または少なくとも改まった食事だけは、女に調理させぬところがある。

 こうして男は寒いさなかに水を使って清めをすることになる。

十五日の小豆粥だけは、男がこしらえるに定まっている家もある。それを神々と松飾りに供えるのは、いうまでも無く年男の任務で、そのために度々水を使ってこの寒いのに身を潔めなければならぬ。

『歳棚に祭る神』より

 とにかく、小豆は赤飯を連想させ、ハレの日に関わる記憶をとどめている。

湯浅浩史によれば、農耕の儀式で

神社では粥占いが行われた。小豆粥に長さ一○センチほどの細い竹筒を入れて煮て、
縦に半割りし、中に入っている米粒を数えたり、先に割れ目を刻んだ粥杖を漬け、割れ目に入っ
たり、ついた米粒やアズキを数えて、作物の豊凶を占った

とするならば、その豊作を願う気持ちがはるかな記憶として甦ることもあろう。だが、それが怪異となる連想の脈絡が追えない。

図説 妖怪辞典

図説 妖怪辞典

植物と行事―その由来を推理する (朝日選書)

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