まれびととは他から渡来する異質なもの

 天賦の直感で古代人の心性を彫琢した折口信夫のこれは有名な学説「まれびと」は、どうやら師と仰ぐ柳田国男の初期の研究を発展させたのだ、そんな弟子折口の自負が込められていた。
 遠来の異人、それは多くの場合、海の彼方より来ると想念されていたと折口は始める。漂着する「石」がその取っ掛かりになる。石に「たま」が憑く。
 ここで折口の独自な観念連合が一閃する。「飼い」=「かひ」という語根を解体しだすのである。
 「ものを包んであるのがかひである」
蚕の「かい」とは「入れ物」である。貝もそうかもしれない。
密閉された入れ物に入り込んでくるのが、「なる」なのだと折口は断言する。「なる」は果実に使われる。「なる」が原形をかえずに成長することを指す。
 古代人には入れ物に何者か=「外来」のものが宿ることで、ものが生じると考えた。
 そうなると「まれびと」となる異人も「外来」のものであることになる。「神」とは「かい」のうちに、忍び込むなにか聖なるものなのだ。

 これは朝鮮神話の卵生説話と同じ根をもつ。それは「竹取物語」「桃太郎」にも通底した古代思考なのだ。
 折口の思考はそれから一躍する。「うつ」とは「いつ=御稜威」とつながる。「うつ」には「空」を当てるのが通例だ。だが、その裏返しで「完全にものに包まれた状態」を指すのだと折口は解く。
 「うつろ船」は折口的表現では、包まれた胞衣のような船、柳田国男の近代的表現では「潜水艇」のようなものとなる。

「うつ」は移ろう、映ろうにも入り込んでいる。「うつぼ」「うつつ」「うつけ」などにもその意味がつたわり込んでいる。「鬱」とはうつの当て字であろうが、鬱な気分には、気分がそぞろということと何かに閉じ込められるという二つの活用が交じり合うようだ。
 そして、折口の思考は「石」に向かう。「さざれ石」だ。石にたまが憑りついて、それが成長する。そういう古代思考が、石に凝縮されているというのが折口思想の漂着点となる。神の入れものとしての「石」、たまが込められた「石」。それが神像石なのだ。

 直感的かつ言語感性による飛躍の多いのが特色の折口思想だが、現代人の自分らにもその閃きの鮮やかさは幾分なりと理解できるのが、その天才的根源性の由縁なのであろう。