魏志倭人伝では少なくともイト国までの地名はほぼ近代の地名と一致している。
ツシマ国(対馬)→イキ国(壱岐)→マツロ国(松浦)→イト国(筑前伊都郡)
ところが、その先からわけがわからなくなる。
ナ国(博多界隈?)、フミ国(宇美)、ツマ国と海沿いにたどって中国の使節は来る。
ツマ国の隣、水行20日、陸行1月が邪馬台国だというのだ。
内藤湖南の『卑弥呼考』に従い「投馬國を和名鈔の周防國佐婆郡玉祖郷」とする。つまり瀬戸内海側に来ているのだ。
ここで疑問が生じる。古代は海運が陸運よりは盛んであり、便利でもあったろう。邪馬台国は海を経由して関係国を統治していたと思われる。それが「水行20日、陸行1月」と内陸に入り込む記述をしているのだ。
邪馬台国の国情を記述した内容は、臨海部でありしかも温暖な気候を思わしめる。
海人のこと入れ墨のこと薄着のことを見れば内陸部にその国があったとは思えないということを指摘したい。
地名は変動するが魏志倭人伝の時代から残るものも多かった。しかし、邪馬台(ヤマト)の地名は現地に残るとは限らない。*1
おそらくは3世紀から4世紀にかけて倭国大乱により邪馬台国を中心とする国の勢力は大きく変動し、明治維新で敗れた藩のように国名は地名から喪失されたのだろう。
それでもその痕跡は残っているのではないか?
女王国に属する国として、魏志倭人伝の記者はこのような国名をあげている。
シマ国、イハキ国、イヤ国、トキ国、ミナ国、ココト国、フコ国、ソナ国、カナソナ国、コオ国、キ国、イゴ国、キナ国、ヤマ国、クジ国、ハリ国、ナ国、キイ国
どれもこれも名残の地名はほとんどないような国名ばかりだ。
だが、上の中国四国の地図で空想をたくましくする。古代の国名にその残滓があると仮定して対応を探ろう。
シマ国(但馬)、イハキ国(石見)、イヤ国(伊予)、トキ国(伯耆)、
ミナ国(美作)、ココト国(長門)、フコ国(丹後)、ソナ国?、カナソナ国?、
コオ国(周防)、キ国(安芸)、イゴ国(日向)、キナ国(因幡)、ヤマ国(山城)、クジ国、ハリ国(播磨)、ナ国?、キイ国(紀伊)
などが浮かび上がってくる。
とくにイハキ国(石見)とハリ国(播磨)は可能性が高そうだ。
それはともかく、対応がついた国名を塗りつぶすとしよう。
空白地域が現れる。備前備後のあたりだ。女王国の中心地はここであったのではなかろうか?備前の「備」は吉備津彦の名に由来する。4世紀以降の強大な支配者だ。
その人物の名で備前媚中備後は塗りつぶされた。
そういうことではなかろうか?
参考書
- 作者: 安本美典
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1987/03
- メディア: ハードカバー
- この商品を含むブログを見る
*1:大和と書いてヤマトと読ませるのも不思議だ