奥三河の花祭

 日本の祭りのなかでも、よく原形をとどめているのは「奥三河の花祭」であろう。
 国指定無形文化財であるのは頷けるし、あわよくば世界無形文化遺産になろうとするその意義もあるかしらん。
 日本の21世紀とは、固有の信仰がほとんど息も絶え絶えたる時代である。それでもなお、この僻地において伝統を墨守するのはドン・キホーテ的な行為であり、時代の虚しさへの敢え無き挑戦には同朋としてエールを送りたくもなる。
 戦前の詳細で綿密なフィールドワーク研究である早川孝太郎の『花祭』は容易に参照できるので、その全貌は散文的には理解可能である。早川孝太郎折口信夫とともに三河の山村を伝いながら祭りの模様を克明に写しとった。祭り研究の白眉とされる。

 だが、それは大都会でデジタル機器に囲繞されたインビトロな現代人にはいかなる意味があるのか?

 民俗学者折口信夫から引用してその価値を見渡しておこう。

 彼の「國文學の發生(第三稿)」

 三河北設樂郡一般に行ふ、正月の「花祭り」と稱する、まれびと來臨の状を演ずる神樂類似の扮裝行列には、さかきさまと稱する鬼形の者が家々を訪れて、家人をうつ俯しに臥させて、其上を躍り越え、家の中で「へんべをふむ」と言ふ

 ついで「翁の発生」からの引用。

 三河の北の山間、南、北設楽郡を中心に、境を接した南信州の一部分は、私も歩いて来て、此地方にある田楽の、輪廓だけは、思ひ浮べる事が出来ます。此は、北遠州天龍沿ひの山間にもある事は、早川孝太郎さんの採訪によつて知れました。種目が可なり多く具はつて居て、田楽と称する土地の外は「花祭り」と称へてゐて、明らかに田楽の特質の一部を保つてゐます。
 花祭りは、鎮花祭の踊りから出た念仏踊りが、田楽と習合した元の信仰を残してゐるので、花祭りといふのは、稲の花がよく咲いて、みいる様子を、祝福する処から言ふのであります。春の花が早く散ると、田のみのりの悪い兆と見、人の身に譬喩して見ると、悪病流行の前ぶれと考へたのであります。春の祭りに花を祝福した行事が、春夏の交叉する頃にも、一層激しく行はれ、鎮花祭――行疫神や、害虫や、悪風を誘導して祓ひ出す――が、人間の精霊を退散させる事によつて、凶事は除かれるものとする念仏踊りを生み、其が教義づけられて、念仏宗になつたものゝ様です。然し、花鎮めと言ふ事は、忘れませんでした。

また、同じ論説にいう。

 此祭りに、舞場に宛てられた屋敷は一村の代表で、祭りの効果は、村全体に及ぶと考へてゐるのです。此は、殆ど、反閇(ヘンバイ)及び踏み鎮めの舞ばかりを、幾組も作つてゐるのです。が、其中に「鬼舞」と、「翁の言ひ立て」とが、田楽の古い姿を残してゐる様でした。春祭りの鬼は、節分の追儺・修正会と一つ形式に見られてゐますが、明らかに、祝福に来る山の神です。だから、鬼は退散させられないで、反閇を踏む事になつてゐて、此辺の演出は正しいものなのです。即、春祭りに、山人の祝福に来る形です。

 重要な論考である「霊魂の話」
折口信夫は旅に生きる人生を送っている。

 二三年前、三河の山奥へ這入つて、花祭りといふ行事を見た。旧暦を用ゐた頃は霜月に行はれたが、今は初春の行事となつて居る。古い神楽の一部分で、神楽は三日三晩続いた、其一部分だと説明せられて居るが、要するに、村の若者に、成年戒を授ける儀式の名残りと見られるもので、白山と言ふものを作つて、若者に行をさせる。人にならせるといふ、信仰があつたのだと思はれる。
かやうに、若者になる為には、石につめたり、山の中に塗りこめたりする事が行はれたので、普通、山ごもりは、単なる禁欲生活だと思はれて居るが、実は其間に、かうして、一度自然界のものゝ中に這入つて来なければならなかつた。其をしなければ、人にもなれなかつたのである。此は、神の魂が育つのと、同じことになるので、他界から来るたまをうける形なのであつて、さうする事によつて、村の聖なる為事に、与る資格が得られる、と考へたのである。


 マレビトたる異郷からの来訪神は一陽来復そのものだ。折口信夫は異人=神とみなしていた。
花祭り通過儀礼と豊穣祈願、そして清めの所作が交じり合った習合の祭りのアーキタイプなのだ。

また、「白山」に注目した民俗学者宮田登がいる。

 映像でその一部を鑑賞できるのは幸いである。

花祭 (講談社学術文庫)

花祭 (講談社学術文庫)