倭のなかの日本と朝鮮

 金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化』シリーズをこよなく愛読する者として、同シリーズの10巻目である「筑前筑後豊前・豊後」は見逃せない。
 その地域的な密度の濃さから金達寿氏は半島と列島の坩堝として、北九州を熱心に探求したに相違ないだろうし、それがこの巻に現れているからだ。
 弥生時代なるものがかなり作為的な時代区分なので、それを持ち出すと混乱するかもしれない。しかし、文化的な弥生風なるものがあり、それが半島から伝来したのであろうことは確実だろう。
 この時代はすべてが半島の影響下にあったとするのが金達寿氏の仮説だが、そうではないだろうと思うのだ。
 大まかにいって、弥生前期から中期までは弥生式土器は半島からの移住民がもたらした。それ以降は共通の文化圏、倭と半島南部はひとくくりにできる文化圏になったのではないかと想像されるのだ。

 稲作は気候が温暖な日本の方が生産性が高い。ひとたびコメが主食の座につくと南方の日本のほうが人口が増大したのだろう。その結果、安曇族などの大和の豪族の遠祖が生まれてくるのだ。
 後期弥生時代には実力を持つ国々が乱立するようになる。それ故に『魏志倭人伝』2000文字は半島よりも倭国を重視したのであろう。

 つまり半島と列島の区別は古墳時代には意味をなさないものだったのだろう。
そして、この見立ては金達寿氏の腹に落ちていく。彼は北九州に朝鮮古代を見出したというべきであろう。

 旧日本史では任那日本府というのが大和国家の領土として存在していたことになっていた。今日ではそれは否定されているが、しかし、北九州や中国地方の共通文化圏としての「任那」はあったであろう。
 それが伽耶であろう。

 伽耶朝鮮半島南部の連合体であったが、そこで優秀な鉄器を産出していたことは有名である。次第に半島で新羅百済の圧力が増してくる。ついには、では、その後継者たちはどこに落ち延びたか?
 出雲との関わりだ。そもそも出雲族の主神である素盞鳴尊は半島出自であり、出雲族は鉄器製造に秀でていたのだ。

古代朝鮮と倭族―神話解読と現地踏査 (中公新書)

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