神戸っ子は平家びいき 須磨の思い

 手元に「きんだち哀れ平家の足跡」とい手作り地図がある。『滅びの美学「敦盛」』の折込マップである。
 それは須磨を真ん中にした平家関係の遺跡伝承の主題図だ。須磨というのは一ノ谷の合戦の舞台であるのは、地元民の常識なのだろう。

 須磨には敦盛塚というのがあり、源平史跡というのが須磨浦公園に散らばる。
地元では誰も勝者である源義経の偉業をたたえたりしていない感がある。須磨寺そのものが平家の墓地のようでもある。敦盛そばというものもあるようだ。

 考えてみれば平清盛が「福原」遷都を強行したのが、今日の神戸港の起源といえなくもない。つまり、清盛という国際感覚の持ち主が大輪田泊という古来からの港(行基の五泊の一つ)を中心としたアジアに拓かれた港湾都市を目指したのだ。
 そのせいか、和田岬のそばに清盛塚(清盛の墓地は未だに不明なのだそうだ)が残る。清盛創建の萬福寺というのもJR鷹取の近くにある。平忠度の胴塚と腕塚が長田港にある。ご丁寧に2つも腕塚があるのだ。また、平重衡囚われの跡や平師盛墓というのが学園都市にある。
 敦盛は史書にはまったく存在感がない。しかし、熊谷直実に討ち取られる『平家物語』の名シーンだけで、須磨寺には三重塔がたち、大きな敦盛塚が出来上がったと『滅びの美学「敦盛」』の著者は感嘆している。凛々しい若武者(16歳だった)の最期は紅涙を絞らせてきたのだろう。

 まさに平家の死屍累々の死都福原であるのだが、平家への恩義への感謝を忘れていないというのも神戸っ子の心意気なのだろう。
 そして、おそらく、平家の公達の美学や都会性といったものが神戸市民の美学となっていった気配があるのだ。平家の家紋が可憐な美をまとう蝶紋であるのも、その有終の美を仄めかす徴(しるし)となっている。

滅びの美『敦盛』―須磨・一の谷・須磨寺

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武士の王・平清盛 (歴史新書y)

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