ああ玉杯に花うけて

 佐藤紅緑の熱血少年小説『ああ玉杯に花うけて』を読んで、不覚にも感涙してしまった。
右翼小説かと思っていたがそういうわけでもない。熱血少年たちの立ち回りストーリーというか、任侠ワールドというべきか。
 設定は直線的だ。
 豆腐屋のチビ公は貧乏にうちし枯れているが、よき師とよき友に恵まれ苦境を脱し、心機一転向学心に燃える。光一は品行方正な優等生にして、豊かな家庭の子ではあるが、チビ公との友情を大事にする好漢である。
 それに対して、街の権力者を父に持つ阪井巌は乱暴ものだ。売り物の豆腐を取り上げすなど、チビ公を平然となぶる。手塚という日和見主義の金持ちのボンボンが狂言回しで出てくる。

 気がついたことがある。これは昭和のドラえもんのいない「ドラえもん」ワールドなのだ。
 主人公はのび太的であるが、最下層の階級に属する少年である。光一は出来杉君だ。そして、ジャイアンは阪井であり、手塚はスネオなのだ。ドラえもんの替わりに、正義を信じる大和魂が配されているのだ。
 人物造形はシンプル極まりないが、作者の情熱がそれを補って余りある。作者は青森県人だが、この地方はしばしば情熱家を輩出する特異な場所なのだろう。

 自分が気に入ったのは、浦和の地名がそこここに出てくることだ。浦和中が舞台となるし、あの調神社もでてくるのだ。
 それに加えて、もはや、誰もそんな見方をしないような激烈な意見を開陳する点である。

 例えば、光一が嫌われものの手塚の素行を涙ながらに、さとす場面がある。
ここで、「活動」とは活動写真、すなわち映画のことだ。

「活動は決して下劣じゃない」と手塚はいった、かれは光一のいったことが充分じゅうぶんにわからないのである。
「じゃきみは活動のどういう点がすきか」
近藤勇は義侠の志士じゃないか」
「そこだ、きみは近藤勇を十分に知りたければ維新の史料を読みたまえ、愚劣な作を愚劣な役者が扮した近藤勇を見るよりも、専門家が調べた歴史を読み、しずかに考える方がどれだけ面白いか知れない、活動の小屋は豚小屋のようだ、はきだめのようだ。あんな悪い空気を呼吸するよりも山や野や君の清浄な書斎で本を読むほうがどれだけいいか知れない、活動なんていやしいものを見ずに、もっとりっぱな趣味を楽しむことはできないのか、高尚で健全で男性的な趣味はほかにいくらでもある、趣味が劣等だと人格も劣等になる、きみはそれを考えないのか」
  

 今どき、こうした意見は誰も顧みない。死滅した異見なのだ。それ故にこそ価値があると自分は思う。
現代の、この世の中にこうした野趣あふれる見解の持ち主は、もはや誰もいない。寂しいものだ。