畏怖とカミ

 本居宣長大人のカミの定義はすぐれて日本的であります。

 凡そ神とは、古の文どもに見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、そを祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、その他何にまれ、世の常ならずすぐれた徳ありて、かしこき物を神とは云なり

 かしこき=畏き であるのがここでの着眼点であります。
 巨石、巨樹などになんとはなしに、畏れの兆しを感じ取ることがあります。たいがいの日本人はそうでしょう。
 現代日本においては始原的な感性、古い淵源を有する宗教本能が、まだ、エブリデイライフにあります。デジタルで即物的な「現代」によっても根絶されずに残っているのは摩訶不思議であります。

 「聖なるもの」はまず「畏怖の対象」であることをルドルフ・オットーははじめに開陳していました。
 聖なる存在への恐れとは実存が超越的なおののきに圧倒されることであります。

 これは合理的な理性とは違う次元の感覚であると自分は思います。本居宣長大人の主張は、なんとはなしに肯うべきなのでしょう。

玉勝間〈上〉 (岩波文庫)

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聖なるもの

聖なるもの