流しびなと淡島信仰

 清まることをいたるところで演じ、祈り、感じる。それが「穢れ」を払う行事となり所作となる。
「流しびな」はその代表だろうか。
 ひな人形もここでは穢れとともに水に流されてゆくカタシロである。
 やはり、折口信夫の論は奥が深い。彼の発想を移植すれば、淡島信仰は女人の月のもの忌みを含めた一切の穢れを払う。
 なればこそ親たちは娘のうちからおくり雛にかけた淡島様への願を通じて、障りを避けて通るように先々のことを願うのであろう。

 黙阿弥の脚本「松竹梅湯島掛額シヨウチクバイユシマノカケガク」駒込吉祥寺の場面で、三月三日に、お七が内裏雛ダイリビナを羨んで、男は住吉スミヨシ様、女は淡島アハシマ様と言ふ条クダりがある。どうして淡島様が、雛祭りに結びついたか。三月三日に、村々の女達が、淡島堂に参詣する風習が、所によつては、極最近までもあつた。私も、先年三浦半島を旅行した時、葉山から三崎の方へ行く途中、深谷と言ふ所に淡島堂があつて、村の女達の、大勢参詣するのを見た事がある。此由緒ユカリについては、次のやうに言はれて居る。
昔、住吉明神の后キサキにあはしまと言ふ方があつた。其方が、白血・長血の病気におなりになつたので、明神がお嫌ひになり、住吉の門の片扉にのせて、海に流された。其板船が、紀州加太カタの淡島に漂ひついた。其を、里人の祀つたのが、加太の淡島明神だと言ふのである。あはしま様は、自分が婦人病の為に、不為合せを見られたので、不運な婦人達の為に、悲願を立てられ、婦人の病気治癒の神様になられた。江戸時代には、淡島願人グワンニンと言ふ乞食房主が廻り歩いて、此信仰を宣伝し、婦人達から、衣類を奉納させたり、かもじ其他の穢物ケガレモノを集めて廻つたりした。諸方にある淡島堂は、この乞食房主の建立にかゝるものが尠くない。

さらに折口は意外な切り口で人形にせまる。人形をしまう箱こそが社にほかならぬというのである。神殿としての櫃だ。
いまだかつてこのような指摘をした学者はいなのではなかろうか?
 人形をしまう箱こそ、それが信仰のかたちを伝えるのだ。
             折口信夫「偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道」より

http://youtu.be/-NJWqUetn38