坑内カナリア理論から見たる不毛の荒野としての現代

今はなきカート・ヴォネガットJRの「坑内カナリア理論」を援用してみる。
ご承知のように、芸術家は鉱山のカナリアだというのがヴォネガットの所説だ。
 酸素の欠乏をいち早く感知してもがき苦しみ、坑夫に警告する。
 それが芸術家の役割だ。
 現代の文学の凋落と、それにポップスのインパクトの喪失に対して援用してみる。
 アメリカ文学の60〜70年代と現代を比較してみよう。当時の文学は凄かったと素人ながら思う。アップダイク、サリンジャー、ソール・ベロー、カポーティと...さながら綺羅星のごとく個性のある人物がいた。
 作家とその時代、それに作品と同世代の人生がシンクロしていたようだ。
だから、ライフスタイルや感性をかたるのに作品を参照すれば十分だった。
 日本の漫画でいえば「AKIRA、スゲエなあ」「すげえ」(会話お終い)
それくらいのイメージの占有度があったわけだ

 それらの作品の気分は『言語の都市』が、ふかくえぐりだしている。
トニー・ターナーは現代人であることの異様な息苦しさを作家の精神から蒸留してみせた。
 それこそが、すぐれた作家が坑内のカナリアである由縁なのだろう。
 彼らは大衆に先駆けて、精神の窒息状況を描き出したわけだ。
 つまり、半世紀ほど前に「まともな感受性を持つ芸術家」は精神的に絶滅した。
 そういう時代のあと、つまり、洪水の後の世代がわれらなのだ。
芸術的な天禀は過少な酸素の時代には生きられない、育つこともない。
 思えば、人間性が欠落してゆく時代にあげた抗議やうめき声が、60〜70年代の文学に結実したのだ。それ以降、見るべき精神的な後継者はアメリカ文学界には誰もいない。
 そう!何とも言えない不毛な精神の原野にアメリカ人を典型とする現代人は取り残された。ダンテのいう煉獄に生きているかのようだ。
 愚童羝羊心と空海は言うだろうか。
 インターネットにしがみついて無聊を慰めているだけなんだろう。音楽のパワーの低下がインターネットとともに始まったという指摘があることを申し添えておこう。

言語の都市―現代アメリカ小説 (1980年)

言語の都市―現代アメリカ小説 (1980年)