自動販売機が話す文化

 缶飲料の自動販売機で朝にコーヒーを買えば、
「ありがとうございました。いってらっしゃい」
夕方の帰宅時間帯にお茶を買えば、
「ありがとうございました。お疲れさまでした」
エレベーターも「お待たせしました」、
右折する車も「クルマが曲がります」とアピールする。

 とまあ、こんな風に機械にしゃべらせるお国柄にわれらは馴染みきっている。だがこうした土地は、珍しいであろう。
 欧米圏にはこのような文化は存在しない。絶対にあえりない。
なにしろ人型ロボットを嫌う国なのだ。人でもないものが人語を発するのを許すわけがない!「鉄腕アトム」にすら違和感をもつのが欧米および中東なのだ。
 聖書にある通り「神は自分に似せてヒトをつくられた」のであるから、機械ごときがヒトのモノマネをするのは許せぬし、解せぬのだろう。
 ましてヒトにあらざる自販機が話しかけるなどというのは不条理極まる、はずだ。
 それに、アフリカや南アメリカにはないのは確実だろう。お隣ぐみの韓国、台湾などアジア圏にも、ほぼ存在してないのではなかろうか。

 なぜ、このように機械が語りかける文化となったのだろうか?
 これは神道のせいであるというのが、仮説であります。万物に御霊が宿りさえずりあう、そういう原始的心性を文化に残したのが、この国の文化だからだ。

 問題は証拠があまり無いことだろう。
 かつて、三浦じゅんはゆるキャラを神々の末裔とみたてていたことがあった。そのくらいか。あるいは、井上章一が『人形の誘惑』で論じたような商品や企業をマスコットあるいは動物キャラに変容させてしまう傾性。フィギュアに思い入れをつぎ込みすぎることも、動物にカワイイ!と奇声をあげるおなごたちもその流れにある。
 古今集の序にあるように、生きとし生けるものが声を感情を持ち、人に訴えかける、そういう心情をどこかに宿しているというべきか。

 ロボットやアニメなどの入れ込みを分析しながら突っ込んで分析しないと論証できない。
だが、胸に手を当てつつ沈思すると、機械が語りける、ものみなサエズルのは当然のような感じがするのだ。

自動販売機の文化史 (集英社新書)

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人形の誘惑―招き猫からカーネル・サンダースまで

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