ほぼ柳田国男翁の『昔話と文学』を依拠しつつ、竹と月と富士山を取り上げます。
『本朝文粋』には「富士山記」という文があり、なぜだか山頂に青々とした竹林があるとしている。
また、その頂上に池を匝りて竹生う
それと、富士山のふもとに日本では珍しい竹の植物園があるのは偶然ではないだろう。「富士竹類植物園」であります。
これは、中世人の夢想と無関係ではないかもしれない。
13世紀の紀行文『海道記』では富士山を仰ぎみて作者が竹取物語とかぐや姫を思い起こしている。すでに、中世には月の姫君の伝承は、富士山と結ばれていたのであります。
実は領土問題の場所「竹島」にも竹が生えていたとする伝承がある。いま見てもただの岩山なのにだ。
「北西に二日一夜行くと松島(現在の竹島)がある。又一日程で竹島(鬱陵島)がある。俗に磯竹島と言って竹・魚・アシカが多い。この二島は無人の地である。」
『隠州視聴合記』
竹島の今は、ただの岩山で緑の一欠けらもないです。
竹の付く地名では琵琶湖の竹生島がある。都久夫須麻神社が鎮座している。ここの名称が「神のいつく島」だというのが示唆的である。
竹が神の神籬(ひもろぎ)となるというのは、あまり聞かない。だが、松竹梅で「竹」を高くかうのが日本人だ。沖浦和光の『竹の民族誌』では竹の霊力を幾つかの事例から論証している。
柳田翁は「竹取物語」が無から生じたのはなく、民間伝承が下地になっていると論証しようとしている。羽衣伝説や小さ子などは近しいかもしれない、だから大きな要素にはなっていたろう。
沖浦和光も伝説を組み合わせて物語にしたと認めている。でも、かぐや姫の物語とは縁遠い感がする。
そうなのです。物語の主筋は伝承世界から隔絶しているような気がします。
何よりも竹取りの翁が竹から子どもを見出す、その子が天人であり、地上の権勢を鼻にもかけず、月に戻ってゆく、そのストーリー自体が、民間伝承とはかけ離れて、優れた寓話性を有していると思うのであります。川端康成はわざわざ詳細な解説「竹取物語鑑賞」と現代語訳をものして、それを絶賛している。
そもそも竹取りという職が貧しい細民のものであり、その民のもとを神聖な天人が訪れ、天朝をはじめ現世のもろもろの敬われ、羨まれるものをないがしろにしてゆくのであります。
古代の文学にしては、パンチが効き過ぎであります。作者の目線がはっきりしているのです。
幕切れに富士の山で不死の薬を焼くというも何とも寓意がきいている。「
柳田国男全集〈9〉信州随筆・国語史 新語篇・昔話と文学・木綿以前の事
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