幾度も回帰する戦艦大和ノ最期 

 帝国海軍のあだ花でありながら、掉尾を飾った巨大戦艦大和の記憶は、たびたび民族のメディアによみがえる。『SpaceBattleShipヤマト』を観て感じたのは、民族のトラウマの自己慰安であろうか。
 映画はどちらかというとスポコンもののノリだったが、それでもやはり艦船特攻に殉じた3000名の想いはオーバーラップした。

 敵の圧倒的な航空力に対して、はぼ無力な対空砲火で華々しく応戦する、そのけなげさには敬礼したくもなる。(実際に、戦艦大和グラマンを十数機撃墜したにすぎないのだ)
 叩かれまくって耐え難きを耐えたあとの、こらえにこらえた怒りの一撃が「波動砲」の発射になるのであろう。

 沖縄戦に時点では、海軍力において彼我の差は隔絶していた。大和の出撃は愚かなる犬死行為だった。しかし、帝国海軍は沖縄で苦しむ国民と友軍のために、せめてもの手向けとして大和とその乗組員を差し向けたのだ。国民が苦しんでいるのに、艦船なき海軍が安閑と見守るだけでは、忍びなかったと、そう考えようではないか。
 かくして、沖縄の悲劇と大和の壮絶な最期は日本人のトラウマとなって、繰り返し回帰しつづけることになるのだ。
荒巻義雄のロングセラー『紺碧の艦隊』やコミックの『夢幻の軍艦 大和』、映画『男たちの大和』などなど。そして、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズそのものもそうだ。
かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』の海江田の原潜も「ヤマト」であった。
 一連の架空大和ものでは、「純粋な悪への正義の戦い」に置き換えられていかる。それは壮絶な無駄死にを遂げた乗組員に対するせめてもの詫びと悔やみであり、正当化の懐いなのであろう。
単艦で敵勢力圏に突入し、すべての困難を排してミッションを果たす。それは現実の戦艦大和がなしえず無駄死した英霊への沈鐘なのであろう。
多くの戦艦大和を題材とするコンテンツが大和の乗組員の鎮魂と行為の昇華を図っているのは、そのためだ。

 反戦的な立場である自分でも、たぶん乗組員たちは、死ぬのが嫌だとか、なんて無益な戦争なんだと思う以外に、何としても国土と民族を守りたいという決意、つまり決死の闘魂があったと想像したくなる。

SPACE BATTLESHIP ヤマト プレミアム・エディション [DVD]

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 伊福部昭の日米開戦後の気分を伝える貴重な協奏曲。
少なくとも対米宣戦は正義の戦いと皆は信じていた。それを愚かというのは簡単だ。