不遇なる現代音楽作曲家たち

 Henryk Górecki、Alfred Schnittke、Alemdar Karamanov、Ida Gotkovsky、Krzystof Pendereckiと何の気なしにWIKIの「近現代音楽の作曲家一覧」の1920〜30年代の作曲家の名を拾い出してみる。
 私のかろうじて知っていたのは、最後のペンレツキだけだった。40年代50年代とますます知らない音楽家の名が増えてゆく。
Caesar Giovannini、André Boucourechliev、Caesar Giovannini、Ivo Malec、Pierre Boulez。ここでも最後のブーレズを指揮者として知っているのみ。
 もちろん門外漢で外野から「現代音楽」をよく知らない自分が不勉強なのは承知している。
だが、一般市民はもっと知らないし、その音楽に接する機会はほとんどないと思うのだ。小数のミニマル音楽家の曲をのぞけば映画にもテレビにもその断片すら出てこないし、出版でいえば教養向けの文庫・新書ですら現代音楽の先端を紹介していない。その試みさえない。音楽之友社など専門出版や雑誌だけが細々と伝えるだけではないか。
かつて、クセナキス松平頼暁などが論考を続々出していた時期もあったけれど。
 なぜ、こうした事態になってしまったのだろうか?


1960年のペンデレツキを好きこのんで聞くサラリーマンは希少だろう。疲れて帰宅してビールを飲みながらくつろいで、拝聴する楽曲ではないからだ。
この弦楽四重奏で、心休まるだろうか?
管弦楽の演奏会での演目となりうるだろうか?
喜んで練習曲やレパートリーに演奏家が選ぶであろうか?

 いずれも「No」であろう。
なんというか、現代音楽の作曲家は大衆の好みを無視している。それhそれでいい。選別された聴衆が支持してくれれば、それでいいだろう。だが、そうした聞き手はどれだけいるのだろうか?

 現代的な音楽美をひたすら追求することで、大気圏を突き抜けてしまったのではないだろうか、と素人の自分は心配になる。ガルシンの短編で『アッタレーア・プリンケプス』というのがあった。青空文庫で読める
自由と理想を求めて温室の屋根を突き抜けた樹木が凍えて自滅する。
 これら現代音楽の作曲家たちの肖像写真はどれも不幸な表情を浮かべているように思えてならない。