日本の美と無常の文化

 王侯・貴族・金満家の美がユーラシア大陸系の美だ。均斉・豪快・豪勢な誰でも仰ぎ見るような太陽のような美が大陸の芸術品である。不滅への願いをそこに見出すことができる。
 おそらく、そこにはたらく力はバタイユの生命の蕩尽である。あり余るエネルギーを注ぎ込み、燃焼し尽くすタイプの美しさであろう。東南アジアやメソアメリカの遺跡などはバタイユの説がそのまま造形美となったようだ。

 それに対する日本の伝統美は、簡素さ・かそけさ・細さ・危うさにその活動の場があるようだ。淡くもろく移ろい易いオブジェに日本人は美しさを発見したといえる。
 例えば、松尾芭蕉長谷川等伯古田織部は他の文化に照応する才能はないであろう。

 どうでもいいいような、ありふれたものの過ぎゆく瞬間に凝結した美をすくい上げる手際は、他文化を寄せ付けないものがあるのではないか。
 それゆえに、町民・庶民・常民の美であり、月がそうであるように何かの反照や共振でもって成り立つようなふつつかな性質を内包している。
 最後の灯火のような日本美は、それゆえに枯淡の美であり、滅びの美であり、無常の美であるといえよう。
 このユニークさは何かほどか大きな潜在力を秘めているのではなかろうか。なるほど、主流ではない自然体であることでは多くの未開文化の芸術と共通であるけれど、それが灰汁や生命力が洗い流され洗練されたところが、原始美術との差であろう。
 いずれにせよ、鉄と石の摩天楼を築くのではなく、あえて木と紙で建造物をつくる、これは人類の文明を特徴づける造作コンセプトとはかなりズレがあるのだ。

 何ごとも消え去るのを前提とした人工物や建造物の文化を育んできた日本は、今後世界人類に何か重要な貢献をなしうるポテンシャルがあると信じている。

世界に於ける日本美術の位置 (講談社学術文庫)

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