廃墟論の空疎さについて

 谷川渥編の『廃墟大全』は廃墟論の名編と言っても過言ではない。
伝説の出版社、トレヴィルによる1997年の出版物である。当時、ゲームなどメディアのそこここに出現していた廃墟に着眼して、古今東西の廃墟にまつわる見識を総動員した力作である。
 と同時に、廃墟を現在において生成しつつある我らの時代には、ほとんど共感できるような論述がないことに驚く。
 SF界の代表的論者である巽孝之にしても、ノヴァーリス研究家の今泉文子であっても、さらには写真論の飯沢耕太郎、一癖あるドイツ文学者種村季弘や中国文学論者の異端、中野美代子らにしても国内の廃墟を見聞し、その崩壊プロセスをまざまざと体感した今の世代に響くような指摘や予感は一切ないのではないか。
 この懸絶はどこに原因があるのか?
 当時すでに先進国アメリカに産業廃墟があるのは知っていた。だが、日本にそれが生まれてた今となると、全然ちがうなのだ。それがもたらす空虚感や虚無的情緒はハンパではない。廃墟、廃線、廃工場、廃村、廃鉱、廃校、廃炉..と増殖してゆく廃墟に立たづむ我らは無力感に浸る。
 日本の現在はあらゆるものが朽ちてゆく中世の世界に近いのではあるまいか。驚くべきことに無常感のトポスとしての廃墟論は、まだ書かれていない。仏教に親しむ東洋人の定番だろうに。

 かつて埼玉県秩父の白岩集落廃墟におじゃましたことがある。石灰岩を採取していた鉱山跡に残された民家数軒がある。時間が止まった部屋のなかには当時の新聞や雑誌、LPが散らかっていた。学校の表彰状が目に焼きついている。廃墟ファンの間では評価の高い物件である。
 この廃墟と『廃墟大全』の廃墟との差は生活感の残像感覚の有無ではなかろうか?
 戦争や天災で生活空間が残骸に変貌する、その感覚が生活感の残像感覚だと思う。

 といろいろなことを思いながら読むのに谷川渥編の『廃墟大全』は格好の素材を提供する。もはや、どこか別の世界の廃墟を論じている時代ではなくなったのだ。


幸いなことに2003年に文庫化されたことを報告しておこう。

廃墟大全 (中公文庫)

廃墟大全 (中公文庫)

白岩集落廃墟のドキュメントはこれ。
http://kanso.cside.com/neko_tabi/0409/torikubi.htm

 だいたいこの辺りであると思います(確証がないです)中央の白い土地は石灰岩の採掘場です。白岩集落の人たちもそれを採取していたはずです。現場近く(といってもかなり離れてましたが)には今でも石灰岩の採掘工場が稼働中です。


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