往復ビンタのセマンティックスとまでいかない意味論

 体罰がなくならない。しかし、その良し悪しは簡単には決められないのではないか。
一概に体罰はアクと決めつけられないのは、身体的な痛みを通して分かる知識というのもあるような気がするからだ。
 だいたい、教師だって人間だ。愚かで無知な生徒が、とめどなく集団の統率者たる人を愚弄したり粗暴であれば、それをねじ伏せることができなくて、どうして教師たる権威を示せるだろうか?

 ミャンマーの独立の志士の一人、ボウ・ミイガンが残した貴重なドキュメントが翻訳されている。軍事教練を知らぬ若者たちの成長の物語りといえばいいか。
『アウンサンと三十人の志士たち』(中公新書)だ。
 このアウンサンとは現ミャンマーの女性指導者、アウンサンスーチーの父親だ。

 太平洋戦争の前段階で南機関の藤原大佐とアウンサン以下数十名の若者たちは協力することになる。もちろん、イギリスの植民地であるビルマ(現ミャンマー)の独立を勝ち得るためだ。彼らは日本の軍国主義が危険なものであるのは知り抜いている。しかし、フランスやイギリスにビルマの独立を許す気は毛頭ないことは明白だった。
 毒を以て毒を制す、という考えで大日本帝国陸軍と手を組んだのである。しかし、もう一つの動機があったことは指摘されるべきだろう。
 米英側のレーシズムである。あからさまな人種差別主義だ。
 東南アジアの民族は欧米植民地支配でどうにも度し難い人種差別を受けていたのだ。それは帝国日本の朝鮮支配での差別などとは比較にならない。
 同じ乗り物に乗れないなど公共施設の差別待遇だけではない。平気で劣悪な労働環境、住環境を押し付けていたし、なによりも過酷な経済的な搾取があった。
 まだしも朝鮮統治のほうがまとめであったのはこの本でも明らかだ(日帝時代に人口が増え、重工業が発達し、義務教育も普及した)

 つまりは軍国主義日本のほうが与しやすいとみるのは道理であったのだ。
以上は、余談だが。

 中国南部の海南島でアウンサンと数十人の志士は軍事教練を受けることになる。彼らはその厳しさに不平をあげる。兵舎の清掃が何の役に立つと不満を持つ。重い兵嚢をもっての匍匐前進に苦しむ。
 アウンサンは憤まんをもつ他の仲間たちを率先してなだめ諭すのだ
 戦場で生き抜くためには規律と秩序が重要であり、過酷な訓練こそがサバイバル、そしてイギリス軍に勝つために最低限必要なことだとアウンサンは理解していたいのだ。
 なかでも、彼らを憤慨させたのは「ビンタ」である。祖国独立の志士たちに対する何たる侮辱か!
というわけだ。

 この「ビンタ」はほかの占領地でも悪名高いものの一つだった。日本軍の悪習だというわけだ。
 水木しげるの傑作『総員玉砕せよ!』でも理不尽な行為として描かれている。
実際、自分もこれは有無を言わせぬ口封じの暴力とほとんど嫌悪している。そのビビビビという擬音も耳に焼き付いたくらいだ。
「ほとんど」?
なぜ、100%No!ではないのかと問う人もあろう。

 それはこれも反戦的なノンフィクションである『戦戦艦大和ノ最期』のいちシーンが記憶に焼き付いているからだ。

 若い将校(学徒動員)の一人である吉田満が自分より若い兵卒がうっかり敬礼をし忘れてしまった場面の話だ。本来、海軍の決まりではその兵卒を直立不動にさせて往復ビンタをする。それをせず、諭して教え行って良し、と吉田少尉が許した。
 それをたまたま見咎めた臼淵大尉が吉田を以下のように論駁し、鉄拳制裁した。
「貴様にも一理ある。それはわかっている。だからやってみようじゃないか。砲弾の中で俺の兵隊が強いか、貴様の兵隊が強いか。あの上官はいい人だ、だからまさかこの弾の雨の中を突っ走れなどとは言うまい、と貴様の兵隊がなめてかからなかどうか、軍人の真価は戦場でしか分らんのだ、いいな」

 吉田はその言を反論なしに書き留めた。不条理な環境下での道理を感じたのだろうか。この大尉も大和とともに沈んだのだ。
 過酷なミッションを達成するため、体罰での教練は無意味と一概に除けることは難しいと思うのだ。


【参考文献】

アウンサン将軍と三十人の志士―ビルマ独立義勇軍と日本 (中公新書)

アウンサン将軍と三十人の志士―ビルマ独立義勇軍と日本 (中公新書)

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

 戦闘の外面的ノンフィクションでは描き切れない人間の内面性の描写というのはこの作品の最大の卓越性であろう。戦争好きも戦争嫌いもどちらも読むべきだろう。ましてや戦艦ヤマトのファンだったらなおさらだろう。

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)