知日的中国人による最近の日本人への批判について

 このところ(2017年最終四半期から18年第1四半期にかけて)、中国からの声のそこここで日本に対する憂慮の念のこもった批判がネットで目につく。例えば、ここ

 曰く、日本は下り坂にある。リスクを取らない若者たち、老人だらけの地方都市、外国観光客のいい評判だけつまみ食いの自愛心、なんでも小さくしたセセコマシイ空間と息苦しい住居....等々。
また、先進国病の深刻な症状、とくにメンタルの面の劣化を指摘しているようだ。
 そう言えば、司馬遼太郎が好んで描いたような「美しい日本人」が減っているように自分も感じたりする。
 ビジネスショー関連でもAI技術やEVで中国の存在が綺羅びやか。日本は愚かアメリカのお株も奪いつつあるようにも思えるなどなど。
 

 いちいち、ごもっとも。
 日本人は真摯に受け止めて改善すべきは実施すべきであろう。

しかし、
 これらは事実でもあるし、一過性の中華的な悪罵でないだけに刺さるものがある...のだが、実際のところ、それは経済が高度成長期にあり若者たちが我が世の春を謳歌している国家からの「心象風景」でもあるのも「歴史的」な事実だろう。
 つまりどこかで見たような論説なのだ。

 日本もバブル期にはどうような心象風景を先進国アメリカに対して、抱いて。第二次大東亜共栄圏の経済的実現を唱えた論者もいたのだ。それは多くの中高年層が抱く感想でもあろう。

 でもって、もっと卑近な「日本批判」は韓国が十年前ほど、あの「漢江の奇跡」の時代あたりに似たような言説を弄していたことを思い出される。
 日本のGDPをもうすぐ凌駕する、彼らの技術には見習うことは何もない...。
そんな主張が韓国メディアにも現れたことがあった。確かにサムスン電子インテルを抜き世界一の半導体企業になった。半導体の先進性のお株は韓国に奪われた。
 そういう目覚ましい躍進はあったが、現在の韓国という国には政治や社会、経済、安全性..どれ一つのとっても、日本人が羨ましく思うものは何もない。韓流ドラマは例外かもしれないが。
 北朝鮮との日和見政策と外交、一部の大企業だけが支配的ないびつな経済構造や高い若者の失業率、やり直しできない階層社会、セウォル号沈没事故のような海難事故の顛末は呆れ果てた大人たちの怯懦ぶりを見事に示していた。毎年のように繰り返される大事故の数々。地下鉄事故、大火事や交通事故の頻発...。
 技術開発について付言すれば、何ら特筆すべきものを生み出していないのではないか?
 新興国を脱皮したが、その恩恵を味わう前に早々と先進国病に羅患してしまったようだ。
 あの当時の韓国の言論は伸び盛りの子供が老成した大人を軽視したのに似ている。右往左往する隣国を見て、そんな結論を自分はかってに出している。

 そういうわけで、今日の中国人の批判というのは、多くの日本人にとってはいつか通ってきた道に中国人たちがいる、というに過ぎない。若さと成熟の差。巨大な膨張を続ける大都会にいる人々と高齢者の処遇と空き家を対策するのにてんてこ舞いの人々との差なだ。
 換言すれば、坂道を登りつつある国民と、峠を越して坂を降りつつある国民の観点の相違だろうという歴史的感慨を持ったりもする。

 国民の時代拘束的な相互理解をどうのこうのというのは、21世紀の今にあっては副次的な話題だろう。
 実際のところ、先進国かどうか、世界経済を牽引するかどうか、というよりは、もっと包括的なビジョンで世界に対してどういう貢献をなすべきか、後世に何を残すべきか、そういう観点でもの申すというのが、成熟した国民意識であろう。
 その観点で言えば日中韓どこも全然物足りない。ドングリの背比べというべきか。

 さりながら、一つ指摘しておきたいのは、恵まれない国や地域への福祉的支援や衛生改善、教育振興などのでは今のところ日本の貢献が中韓を過去の蓄積において上回っている。それが長期的に人類のためになっているかどうかは不明だが、現地人に感謝はされているのではないか。