橋本武という元国語教師は有名進学校の授業で三年間かけて『銀の匙』を生徒に読ませた。これが伝説の授業となるわけである。『銀の匙』といっても荒川弘の漫画ではない。
その前に中勘助の『銀の匙』はいかなる小説なのだろうか?
東京に住まうある有産階級(といっていいだろう)の子弟の幼年期を懐古したものだが、夢見がちな幼心を通してみた明治の東京の市井がきめ細やかに描かれている。例えば、ありふれた婦人(主人公の育ての親ともいえる伯母)がどのような日常を過ごしていたかが手に取るようにわかる。
岩波文庫版の発行部数は113万部以上であるから、相当にベストセラーであり、ロングセラーでもある。
その小説は200ページにも満たない中編なのだが、4つ原則で押し通すことで、学生たちに国語の醍醐味を教え込むに成功したと言えるだろう。
l 寄り道する
2 追体験する
3 徹底的に調べる
4 自分で考える
「l 寄り道する」はどんなことか。原文がある。
私は毎朝はやく起されて草ぼうぼうとしたあき地を跳で歩かされる。ぺんぺん草
や、蚊帳つり草や、そこにはえてる草の名をおぼえるだけでも大変な仕事である
この「ぺんぺん草」から春の七草、その有名な和歌、平安時代の風習といったようになんでもない草の名から、草木の文化史に分け入るのだ。
「2 追体験する」の例。これは印象的である。
その原文がこうだ。
爺さん婆さんは耳が遠くて呼んでもなかなか出てこない。さんざ呼んでるとそのう
ちやっとこさと出てきてあつちこつち菓子箱の蓋をあけてみせる。きんか糖、きんぎ
ょく糖、てんもん糖、微塵棒。竹の羊羹は日にくわえると青竹の匂がしてつるりと舌
のうえにすべりだす。
このすぐれた教師は「きんか糖」を生徒に配って食べさせる。凧の話があれば凧揚げを経験させることまでする。
という徹底ぶりである。三年はあっという間にすぎるであろう。
このあとは橋本武の原著にあたってみてほしい。特に国語の教師にとって参考になろう。
一つだけ申し添える。「『章魚坊主」から始まる寄り道」であるが、これを
「擬人名語」といい、川の呼び名にしても「坂東太郎」(利根川)、「筑紫二郎」(筑後川)、「四国三郎」(吉野川)などと人名らしくいう場合があります。この種のことばは案外多いもので一冊の辞典(『日本擬人名辞書』/宮武外骨編)ができているほどです
つまり、『日本擬人名辞書』/宮武外骨編なんていう呆れた本があるのは感心することしきり。
中勘助はなかなか難しい人物であった。『犬』という自己卑下の塊のような小説や
「島守」のようにヒトと接するのも嫌になって、長野の湖の孤島に閉じこもった体験もある。
生活苦とは無縁でありという意味では単調でありながら、身内の人間関係の軋轢で苦悩の人生を歩んだヒトでもある。
ようやく近親の呪縛から解放された57歳の結婚式の当日、その近親は自裁している。
『鳥の物語』という不思議な連作で心の浄化を果たしている..といえるかどうか。
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