他人を(正当に)見下すための3つの道具

 おそらく倫理的には人を見下すべきではない。そう、それはわかってはいる。

 なべての人が、あまたの場合において聖人君子でいることは難しいかろう。そう自己弁護して、これからの詭弁的な論議に入ろう。

 

 いかなる場合に(正当に)他者を見下すべきか?

 圧倒的な強者に対峙する場合だ。そこには圧倒的多数性への対抗も含まれる。自己を堅持するのは3つの道具が入り用ではなかろうか?

 

1)ユーモア

 皮肉、からかい、風刺、ブラックな冗談、不条理性の指摘がここに含まれる。

諧謔を一番目に推す。笑いは動物性を超越するのだ。スターリンジョークを見たまえ。たとえ人間以下の扱いを受けようともそれを笑い飛ばす智慧がロシアのユダヤ人には残されていた。そこでヒューマニティを回復し、ひと時の優越性に浸れる。

 

2)素養

 文学、例えばジェーン・オースティンを読みたまえ。それは人情の機微まで描き、そこにある微妙な偽善を柔らかく、しかし容赦なく描写している。

 とりわけ歴史的なバーズアイビュー(俯瞰)は強者への立ち向かう精神の強壮剤。その起源はその弱みや栄枯盛衰を透視させてくれるだろう。

 対峙する相手を理解せよということだ。

 

3)常識の転倒

 相手の世界観に巻き込まれるな。相手の価値観に同調するな。それが世の常識に類することであってもだ。多様性は善だ。

 ディオゲネスたれ、普化たれ、あるいは常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。』としたアインシュタインたれ。